|
|
● 略歴 |
|
・1956年(昭和31年)中津市耶馬溪町下郷に生まれる
・1978年(昭和53年)大分大学教育学部卒業
卒業後大分民主商工会に勤務
退職後、民主青年同盟中央委員などをつとめる
・1989年(平成元年)市議会議員初当選
現在6期目
【所属等】
・経済常任委員会(副委員長)
・総合交通対策特別委員会
・議会活性化推進会議委員
・大分県後期高齢者医療広域連合議会議員
(2013年3月1日現在) |
|
|
|
日出生台の海兵隊演習を、福島社民党党首に説明 |
|
忠彦の名にこめられた平和の願い |
|
私は、1956年(昭和31年)、耶馬溪町下郷の農家の三男として生まれました。上の兄2人が農業を手伝うなか、幼なかった私の仕事は、掃除や洗濯など、家事を手伝うことでした。
「骨身を惜しまず世話をすることの大切さ」 ──だれから習ったわけではありませんが、幼いころの生活の中から自然と教えられたような気がします。気がつけば困ったひとを放っておけない性格になっていました。
私の「忠彦」という名前は、母の弟「忠夫」にちなんでつけられたものだそうです。この叔父は、フィリピンに向かう途中で撃沈され、19歳で帰らぬ人となりました。母からこの話を聞いたことが、その後の平和運動の原点になっています。 |
|
忠彦のこと (母 静子) |
|
借金までして大学にやった子が「共産党に入った」と聞いたときは、本当にショックでした。父さんと一緒に嘆くやら、怒るやら。
戦前の教育を受けたものとしては、共産党に良いイメージがなかったからです。
それでも息子かわいさで選挙の応援に行くと、運動員の人はみんな手弁当で熱心に頑張っています。
「お金」と「飲ませ喰わせ」の選挙しか知らなかった私たちは感心しました。汚い政治にそまらず、元気で人様のお役に立ってくれれば、いうことはありません。 |
|
|
|
産廃処分場の調査 |
|
学生生活で環境問題を学ぶ |
|
「上のふたりを高校にやるときが一番苦しかった。しかし忠彦が望むなら、借金をしてでも大学を出してやりたい」──これは当時、両親が私に語ってくれたことばでした。
大分大学教育学部に進学して生物学を学ぶ中、環境問題の大切さを実感しました。また学生自治会運動を通じて多くの仲間に恵まれ、社会に対する視野も広げることができました。そんな中で日本共産党とも出会いました。
「平和と環境を守る活動」が私のライフワークであると思っています。 |
|
業者と苦しみを一つにして |
|
大分大学卒業後は教員の道は選ばず、大分民主商工会の事務局に就職しました。中小企業の営業を守る運動に参加する中で、大学で学んだ社会のことをどうやって実践していけるかを模索していました。
きびしい現実の社会の中で、業者の苦しみを知れば知るほど、日本の政治が大企業中心になっていることに怒りがこみ上げてきます。「国民が主人公」の政治を実現することの大切さを強く感じました。
2年半後、民主青年同盟の大分の役員に選出され、さらに中央委員として東京の本部で活動。どの国とも対等に話し合う日本共産党の自主独立の立場に確信を深めました。 |
|
|
|
埋め立て中止を求める運動で |
|
TOPへ |
|